プロ入り後 




多村選手のプロ入り後の経歴を紹介します。
プロでベイスターズ入団後、日本代表を経て、ソフトバンクへ移籍。

他の詳しい情報はWikiに多く掲載されているのでそちらを紹介します。
さすがWikiです。

ひとつ言えることは日本を代表する選手だと言うことですね。
今後も期待。

<横浜時代>

1995年、高校通算14本塁打の長打力を買われ、ドラフト4位で横浜ベイスターズに入団。このときの登録名は多村 仁。もっとも打力より守備や走力が期待されていたという話もある。

1997年、レギュラーシーズンの開幕戦となる、4月4日の対中日戦で公式戦初出場。この試合はナゴヤドーム初の公式戦で、多村は7回表に横浜の開幕投手・盛田幸妃の代打として登場。相手の開幕投手山本昌と対戦したプロ初打席は外野フライに終わった。4日後の4月8日には、対阪神戦で田村勤投手から初安打を放った。オフに1年目から痛めていた右肩を手術し、ボルトを埋め込んだ。当初はボルトを埋め込む予定はなく、翌年のキャンプには間に合うという判断であったが、思ったよりも肩の状態が酷くボルトを埋め込まれてしまった。

1998年、右肩リハビリのため1年を棒に振る。一・二軍とも試合出場なし。翌年も二軍のみ出場。

2000年、主に代打、途中出場で一軍定着、84試合出場で打率.257、7本塁打。

2003年、91試合の出場で打率.293、18本塁打、46打点と開花の兆しが見えだす。

2004年、初めて開幕レギュラーの座をつかむと、一気に開眼。強靭なリストを生かした打撃でホームランを量産し、8月15日に横浜・大洋通じて日本人打者として田代富雄以来23年ぶりとなる30本塁打を達成。10月6日には日本人打者として球団初の40本塁打を達成した。3割・40本・100打点は球団初の記録。

2005年、開幕直前にインフルエンザにかかり開幕カードは欠場するが、4月5日の巨人戦から復帰しダン・ミセリからプロ初となるサヨナラタイムリーを放つ。そこから打棒が爆発し、6月18日の試合終了時点で打率.344、21本塁打で暫定的に二冠王に立っていた。しかし6月22日にぎっくり腰による腰痛で登録抹消。症状は重くはなく、登録抹消期間の10日間で一軍に復帰する筈だったが、6月29日に自ら愛車の黄色いポルシェを運転してベイスターズ総合練習場での二軍練習に向かう際、横浜横須賀道路の朝比奈IC付近でスリップして防音壁に激突するという事故(単独)を起こしてしまう。車は大破し多村も検査入院となった。検査では脳には異常が無かったが、全治3日の左肩挫傷、全治2週間の左外傷性複視、網膜震盪症と診断され、復帰には倍かかるという状態だった。このためそのまま前半戦は欠場した。7月29日の広島戦から復帰したものの、交通事故前に見せていた打撃は発揮できなかった。それでもシーズンを通しては2年連続の3割30本を達成したが、交通事故による欠場への懲戒的措置として現状維持での契約更改を余儀なくされた。

2006年、ワールド・ベースボール・クラシックの日本代表に選出され、好守や特大本塁打で初代世界一に大きく貢献した。3本塁打、9打点はチーム本塁打王・打点王だった。公式戦に入っても4月4日の中日戦(横浜スタジアム)で9回裏に岩瀬仁紀から起死回生の同点2ランを放つなど活躍していたが、4月20日から左肋軟骨挫傷のため一月ほど戦線離脱。そして復帰して半月ほど経った6月7日の楽天戦(フルキャストスタジアム宮城)にて本塁突撃時のクロスプレーの際に肋骨を4本折る重傷で長期離脱。シーズンの大半を棒に振ってしまった。オフには持病の腰のヘルニアにブロック注射を打ち再起を誓うも、シーズン終了後、一部の新聞で多村がトレード要員だと報道され、その真否から具体的なトレード先に至るまでいくつかの憶測報道が飛び交った。結局12月5日にWBCでも監督をつとめた王貞治監督率いるソフトバンクに、寺原隼人と1対1での交換トレードでの入団が成立したことが発表された。

12月12日の入団発表会見で、背番号は横浜時代と同じ6と発表された。

<ソフトバンク時代>

2007年、開幕戦に3番で出場し2本塁打を放つなど3安打猛打賞で最高のスタートをきった。初めてシーズン中1度も2軍に落ちることなく、自己最高の132試合に出場したが、試合中の小さな違和感や疲労での途中交代が多かった。また7月3日から9月6日まで本塁打が出ないなど、打率.271・13本塁打・68打点と打撃に関しても思うような結果が得られなかった。最終候補に残り背番号1が与えられていた北京オリンピック野球代表候補に関しても、腰痛のためオーストラリアとの強化試合に出られず、そのままメンバーから外された。

2008年は開幕から3番センターでスタメン出場していたが、腰痛のため4月18日から4試合欠場。4月23日から復帰したものの、4月25日のロッテ戦で3回表の守備中に大塚明の左中間への打球を追ってレフトの長谷川勇也と交錯し右足腓骨を骨折、前半戦を棒に振った。9月上旬から復帰し、2試合連続で猛打賞を記録するなど活躍を見せる。しかし足の状態が万全ではなかったこともあり、9月下旬に再び登録を抹消され、そのままシーズンを終えた。

2009年はオープン戦の試合中、牽制球で帰塁する際右肩を痛めたため、開幕は二軍スタートとなった。同年5月22日に一軍に復帰した際、登録名を多村 仁志(読みは同じ)に変更[1]。復帰後は好調な打撃でチームを引っ張るが、8月以降は疲労や故障による欠場や途中交代が目立つようになり、打撃の調子も失速。最終的な成績は打率.282・17本塁打・57打点にとどまった。クライマックスシリーズでは監督の秋山幸二からキーマンに指名されるが、腰痛のため第1戦、第2戦ともに欠場した。同年に海外移籍も可能となるFA権を取得したが、権利を行使せず残留することが、自身のブログで明らかにされた。


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